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大阪地方裁判所 昭和42年(ワ)6537号 判決

原告 武本清こと 黒田重治

〈ほか一名〉

被告 日東産業株式会社

右代表者代表取締役 佐竹三善

〈ほか一名〉

右両名訴訟代理人弁護士 福岡福一

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者双方の申立

原告らは「(一)被告らは別紙第一、第二目録記載の方法により軟質合成樹脂合着耐圧ホースを生産し、又は右方法により生産した製品を譲渡もしくは展示してはならない。(二)被告らは前項記載の方法により生産された製品を廃棄せよ。(三)被告らは連帯して、≪省略≫金員を支払え。(四)訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決並びに右(一)ないし(三)の請求につき仮執行の宣言を求め、被告らは主文同旨の判決を求めた。

第二請求の原因

一  原告黒田は、昭和三四年七月七日特許庁に対し「軟質合成樹脂合着耐圧ホースの製造法」なる名称の発明につき、同人の通称武本清名義をもって特許出願(特願昭三四―二二一七六)をなし、右発明は昭和三六年七月四日特許出願公告(昭三六―九五九一)を経て昭和三七年五月二六日特許第二九九一八六号として原簿に登録され、原告黒田は右特許発明(本件特許という)の特許権者となった。

原告千代田化成工業株式会社(原告千代田化成という)は昭和四一年四月八日原告黒田から本件特許権を譲り受ける契約を結び、同年五月一八日移転登録を経由して本件特許権を承継取得した。

二  本件特許の特許請求の範囲は次のとおりである。

本文に詳記し図面に示すように、軟質の熱可塑性合成樹脂管を適長に切断したものの中に空気その他の圧力媒体を充填封緘したものを内管となし、これに各種繊維の筒ネットを套嵌したものをヒーター内に通し、その内管の表面を加熱軟化させ乍ら押出成形機のヘッドを通し、同ヘッドのダイスを通るときにその外周に、ダイスから成形して押出される別の合成樹脂外管を套嵌合着して三層一体となし、次いで冷却して製品となす軟質合成樹脂合着耐圧ホースの製造法。

三  被告日東産業株式会社(被告日東産業という)は、原告黒田が設立創始した会社であって、原告黒田は同被告の株式全部を保有し、武本政市の別の通称を用い代表取締役としてその経営全般を主宰し、同被告の事業であるビニール合着耐圧ホースの製造に本件特許の方法を使用して来たが、昭和三八年三月末頃、原告黒田は持株全部を被告日東産業の債権者である被告大阪合同株式会社(被告大阪合同という)に譲渡し、被告日東産業の取締役を辞任して退陣した。

それまで被告日東産業は原告黒田の個人会社ともいうべきもので、同被告による本件特許方法の使用その他原告黒田所有の工業所有権の実施は、法律上の権限に基づくものでなく、単に代表者である原告黒田の指示による事実上の実施にすぎず、従って原告黒田が退陣すれば爾後同被告は本件特許権を含む原告黒田所有の工業所有権を実施できなくなる立場にあった。

そのため、被告日東産業及び被告大阪合同の懇請により、原告黒田は退陣に際し被告日東産業が同年六月三〇日まで本件特許権を含む原告黒田所有の工業所有権の実施を従来どおり継続することを承認し、被告らは右期日限りその実施を打切ることを約定して、その旨の覚書(甲第三号証の三)を取り交わした。

仮りに被告日東産業が従来原告黒田所有の工業所有権につき通常実施権を有していたとしても、同被告は前記覚書によりその実施権を放棄したものである。

四  しかるに、被告日東産業は前記約定に違反して、同年七月一日以降現在に至るまで、本件特許の特許請求の範囲に記載された要件をすべて具えている別紙第一目録及び第二目録記載の方法を用いて軟質合成樹脂合着耐圧ホースを製造したうえ右製品を販売し、また、被告大阪合同は右の事情を知りながら被告日東産業に対し前記耐圧ホースの原料である合成樹脂を供給してその製造をなさしめると共に、自らも被告日東産業から製品を買い受けてこれを他に販売している。被告らの右各行為は、いずれも本件特許権を侵害するものである。

五  被告らの本件特許権の侵害により原告らは次のとおり損害を蒙った。

≪省略≫

六  よって本訴において原告千代田化成は本件特許権者として被告らに対し前記侵害行為の差止を求め、また原告両名は特許権侵害を原因として被告らに対し損害賠償を求める。

第三請求原因に対する答弁

一  請求原因一の事実中、原告黒田がその主張の発明につき昭和三四年七月七日武本清名義をもって特許出願手続をなし、昭和三六年七月四日特許出願公告を経て昭和三七年五月二六日特許第二九九一八六号として原簿に登録されるに至ったこと、原告千代田化成が本件特許権につき昭和四一年五月一八日移転登録を受けていることは認めるが、その余の事実は否認する。

二  請求原因二の事実は認める。

三  請求原因三の事実中、被告日東産業は原告黒田が設立創始した会社であって、原告黒田は同会社の株式全部を保有し、武本政市の通称を用い同会社の代表取締役として経営全般を主宰していたが、昭和三八年三月末頃同会社の債権者であった被告大阪合同に対し自己の持株全部を譲渡し、その後間もなく被告日東産業の取締役を辞任して退陣したこと、原告黒田が代表取締役をしていた当時被告日東産業はその事業であるビニール耐圧ホースの製造につき本件特許の方法を使用していたことは、いずれも認めるが、その余の事実は否認する。

四  請求原因四の事実中、被告日東産業がひきつづき現在まで軟質合成樹脂(ビニール)合着耐圧ホースの製造販売をなしていること、被告大阪合同が被告日東産業に右耐圧ホースの原料である合成樹脂を供給し、かつ製品を買い受けて他に販売していることは認めるが、その余の事実、殊に被告日東産業が右耐圧ホースの製造につき昭和三八年七月一日以降別紙第一目録及び第二目録記載の方法を使用していることは否認する。

五  被告日東産業の昭和三七年一二月一日から昭和三九年一一月末までの間における耐圧ホースの製造販売高が原告ら主張のとおりであることは認めるが、その余の事実はすべて否認する。

第四被告らの主張

一  本件特許の願書に出願人として表示され、且つ特許原簿に権利者として表示された「武本清」とは、原告黒田の通称ではなく、原告の実父裵長煥の通称であって、当時同人は右通称を用い被告日東産業の取締役をしていた。畢竟、原告黒田は右裵長煥の名義を用いて特許出願をしたことに帰するので、本件特許は右裵長煥を権利者として成立したものとみるべきである。故に、原告黒田は本件特許の原簿に登録された特許権者でなく、従って原告千代田化成の特許権の承継取得もまた無効である。

二  被告日東産業は昭和三一年九月以降ビニールホースの製造販売を行なっていたが、その代表取締役であった原告黒田はビニール合着耐圧ホースの生産を企画し、昭和三三年初め頃から従来知られていた製造方法の改良のため試験研究に着手し、当時被告日東産業の従業員であった津田英雄外五名の協力を得て本件特許の発明を完成したのであって、発明完成に至るまでの試験研究に要した資材、労力、設備、動力等はもとより、特許出願に要した諸費用も、すべて被告日東産業がこれを負担した。

株式会社の代表取締役が会社の製品につき品質改良に留意し、生産設備の改善、販路の拡大等に努力を払うのは経営責任者として当然の責務に属する。本件特許は、被告日東産業の営業部門に属するビニールホースの製造に関連する製品の改良ないし生産方法の改善というべきものであって、この程度の考案をなすことは代表者の業務範囲又はこれに随伴する事項に属し、経営責任者の業務執行中に予定又は期待される事柄である。

よって、原告黒田が本件特許の権利者であるとしても、本件特許は典型的な職務発明であり、被告日東産業は本件特許権につき特許法第三五条第一項の法定実施権を有する。

仮りにそうでないとしても、原告黒田は発明完成後これを被告日東産業に実施させることにより、本件特許権につき同被告のため無償かつ期限を特許権の有効期限として実施地域を同被告の営業地域とする通常実施権の設定を許諾したものである。

三  もし甲第三号証の三の覚書の内容が本件特許の実施打切契約であり、特許権者である原告黒田に対し被告日東産業が法定又へ許諾による実施権の放棄を約した趣旨のものであるとすれば、右契約による実施権の放棄は次の理由によって無効である。

≪省略≫

四  被告日東産業がビニール耐圧ホースの製造につき用いている方法は次のとおりである。

(一)  昭和三八年七月一日から昭和四三年一月頃までは、「熱可塑性合成樹脂管に各種繊維を編組被覆したものを内管とし、内管の表面に可塑剤を吹着けて表面を可塑化させ、加熱した金属管の内部を通して温度調節により内管を熱膨張させて管形を保持し、次いで熱可塑性合成樹脂の外皮を融着被覆する。」方法であり、

(二)  昭和四三年一月頃以降現在に至るまでは「常圧下で適宜連続的に製造した無端の内管を編組機内に通じてネットを編組した後、加熱しつつ外管を被覆する工程において、外管押出機内のダイスの傾斜角度を緩急二段に形成したことにより内外圧の均衡によって内外管を密着させる」方法である。

右(一)、(二)のいずれの方法においても、本件特許の要部をなすところの、空気その他の圧力媒体を内管に充填封緘するとの技術手段は全く用いていない。

五  ≪省略≫

第五被告らの主張に対する原告らの反論

一  職務発明の主張について

被告日東産業は原告黒田が個人企業を株式会社組織としたうえ自ら代表者として経営を主宰していた会社であるから、その実体は同原告の個人企業と異ならない。本件発明を完成するため同原告が被告日東産業の資材設備を利用したことは認めるが、自己の経営する事業の利益のため発明をなすにつきその資材設備を利用するのは当然である。特許法第三五条第一項の職務発明の制度は利害相反する使用者等と発明者たる従業者等との間の利益の調節を目的として設けられたものである。原告黒田は被告日東産業と一心同体をなす関係にあり両者の間に利害の対立はなかったのであるから、同条項にいう従業者等に当らない。従って本件発明につき被告日東産業に法定実施権は生じない。

≪以下事実省略≫

理由

一(本件特許の特許権者)

(一)  本件特許(発明の名称「軟質合成樹脂合着耐圧ホースの製造法」、出願日昭和三四年七月七日、出願公告日昭和三六年七月四日、登録日昭和三七年五月二六日、登録番号特許第二九九一八六号)は原告黒田が武本清名義をもってなした出願にかかり、右出願に基づき武本清名義で特許権の設定登録がなされたものであることは当事者間に争いがない。

(二)  原告らは、右特許権の登録名義人たる武本清とは原告黒田の通称であると主張するのに対し、被告らは、武本清とは同原告の実父裵長煥の通称であって同原告は本件特許権の登録名義人に該当せず、特許権者であることを主張しえない旨抗争するので、以下この点について判断する。

≪証拠省略≫を綜合すると、原告黒田は、昭和三七年九月一一日本邦に帰化し、従前の氏名裵福欣を現在の氏名に変更した者であるが、帰化前は登記、納税等の関係では武本政市なる通称を使用し、銀行取引、日常の交際等の関係では武本清なる通称を使用し、本件特許以外の工業所有権の出願についても武本清の通称を用いたこと、原告の実父裵長煥も古くから武本清の通称を使用していたが、本件特許公報及び特許原簿にはそれぞれ出願人、特許権者たる武本清の住所として布施市中小阪一五番地と表示されているところ、右に表示された住所は当時の原告黒田の住所であり、他方同原告の実父は同市中小阪七六七番地に当時居住していたことがそれぞれ認められる。

右認定事実を綜合すると、特許原簿に本件特許権者として権利設定登録を受けた武本清とは原告黒田を指称するものと解するのが相当である。もっとも前掲甲第二号証の特許原簿謄本によると、昭和四〇年八月一八日付で本件特許権の登録名義人武本清から原告黒田に対し同年七月一日譲渡を原因とする特許権の移転登録がなされているが、≪証拠省略≫によれば、右移転登録は、本邦に帰化して黒田重治の氏名を名乗るようになった同原告が登録名義人の表示の変更登録をするのに代えて権利譲渡の形式を践んだにすぎないことが認められる。従って、前記移転登録がなされている事実は、本件特許権の設定登録を受けた者が原告黒田であるとの認定を妨げるものではなく、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

(三)  前掲甲第二号証によると、原告千代田化成は昭和四一年四月八日原告黒田から本件特許権を譲り受け、同年五月一八日移転登録を経由して本件特許権を承継取得した事実を認めうべく、この認定に反する証拠はない。

二(被告日東産業の用いる製造方法)

(一)  原告らは、被告日東産業は昭和三八年七月一日以降現在に至るまで軟質合成樹脂合着耐圧ホースの製造につき別紙第一、第二目録記載の方法を使用している旨主張し、≪証拠省略≫にも右主張に添う供述記載があり、更に≪証拠省略≫中には昭和三八年七月以後においても製造過程でホースに空気を入れている作業を見たことがある旨の供述部分がある。

(二)  しかし、≪証拠省略≫によれば、被告日東産業は昭和三八年七月一日以降軟質合成樹脂合着耐圧ホースの製造に当り内管に圧縮空気を充填封緘するとの手段を講ぜず、単に内管の再端を閉じて内部に常圧空気を封入するにとどめているというのであり、また、受命裁判官の検証の結果によれば、被告日東産業工場で稼働中の押出成形機を使用して実験した場合、内管に常圧空気を封入する方法によって得られた製品と、内管に圧縮空気を封入する方法によって得られた製品との間には品質上特段の差異は認められなかった。以上の諸点を考慮すると、前記二・(一)に挙示した各証拠はたやすく信用できないところである。

(三)  もっとも、被告日東産業の製品であることにつき当事者間に争いのない検甲第七号証のビニールホース(紙ドラムに巻いたもの)は、その内部に空気が圧入され、両端が封緘されているが、≪証拠省略≫によると、このホースはそのまま市販する単管ホースで、出荷、貯蔵、陳列中における製品の変形を防止するため空気を圧入封緘したものであり、合着耐圧ホースの内管として使用するものではないことが認められるので、同号証の存在は原告らの前記主張を支持する資料とするに足りず、他に被告日東産業が昭和三八年七月一日以後において軟質合成樹脂合着耐圧ホースの製造につき「軟質の熱可塑性合成樹脂管を適長に切断したものの中に適度の圧縮空気を充填封緘したものを内管とする」との技術手段を中核とする別紙第一、第二目録記載の方法を使用している事実を認めるに足りる証拠はない。

三(本件特許は職務発明か)

なお、証拠によれば、本件特許発明は職務発明であり、被告日東産業は本件特許権につき通常実施権を有する事実が認められる。すなわち、

(一)  被告日東産業は原告黒田が設立創始した会社であって、原告黒田は、被告日東産業の株式全部を保有し、昭和三八年三月末頃同被告の債権者であった被告大阪合同に対し自己の持株全部を譲渡し、被告日東産業の取締役を辞任して退社したのであるが、退陣するまで武本政市の通称を用い被告日東産業の代表取締役として会社経営全般を主宰していて、右在任中に本件特許発明の研究に着手して完成したものであり、かつ右発明を完成するにあたっては専ら同被告会社の資材、従業員、設備等を利用したこと、本件特許請求の範囲が原告ら主張のとおりであることはいずれも当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫を綜合すると、被告日東産業は設立当初各種金網の製造販売を目的としていたが、昭和三一年九月頃各種合成樹脂製品の製造販売等を事業目的に追加し、その頃以降主としてビニールホースの製造販売を行なっていたこと、昭和三三年初め頃から同被告は代表取締役たる原告黒田の経営方針に基づき従来のビニール単管ホース以外に新たにビニール合着耐圧ホースの生産を開始したが、内管と外管とを均一に密着させることが困難で、満足すべき製品が得られなかったこと、そこで、原告黒田は同被告の従業員を指揮し、自らも先頭に立ってビニール合着耐圧ホースの製造方法の改良のため各種研究を行なううち、内管に空気その他の圧力媒体を圧入封緘したうえ外管を套着すれば、外管套着の際に内管が外圧に抗して変形せず、外管との融合着が均一に行なわれるのではないかと考え、被告日東産業工場で稼働中の押出成形機を使用し工員を補助者として右着想を実験に供し、実験結果を参考として更に研究を重ねた末、昭和三四年六月頃本件特許にかかる発明を完成したものであることが認められる。≪証拠判断省略≫

(二)  以上の事実によれば、本件特許がその性質上被告日東産業の業務範囲に属する発明であることは明らかであり、かつ、原告黒田は被告日東産業の代表者として経営方針の決定、新製品の開発、生産方法の改良等、会社の業務全般を執行する権限と職責を有していた者であるから、右発明をするに至った行為は被告日東産業における同原告の職務に属するものといわねばならない。そうすると、原告黒田のなした本件特許にかかる発明は特許法第三五条第一項にいわゆる職務発明に該当し(本件特許は旧特許法下において出願され、現行特許法施行後登録されたものであり、特許法施行法第二四条により職務発明については現行法第三五条第一項の規定が適用される)、被告日東産業は本件特許権が成立した際同条項の規定による実施権を取得したものである。

原告らは、特許法第三五条第一項は利害相反する使用者等と発明者たる従業者等との間の利益の調節を目的として設けられた規定であって、被告日東産業の実体は原告黒田の個人企業と異ならず、両者の間に利害の対立はなかったのであるから、原告黒田は同条項にいう従業者等に当らない旨主張する。

しかしながら、いわゆる個人会社といえども、その代表者と会社とはそれぞれ法律上別個の人格者であり、法律上の利害の対立が両者の間にないとはいえず、ただ、代表者が会社の全実権を把握しているときは、右利害の対立が事実上表面に現われないのにすぎない。被告日東産業の実体が原告黒田の個人企業と異ならなかったとしても、この事実は同原告が特許法第三五条第一項にいう法人の役員に該当しない理由とすることはできない。したがって、同原告の職務発明につき被告日東産業による実施権の取得を否定すべき実質的な根拠はないので、原告らの右主張は採用できない。

四(被告日東産業の右実施権放棄の有無)

(一)  原告黒田が自己の保有する被告日東産業の株式全部を被告大阪合同に譲渡し、取締役を辞任して退陣した当時、被告日東産業が本件特許の方法を使用してビニール合着耐圧ホースを製造していた事実は当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫を綜合すると、原告黒田と被告大阪合同は昭和三八年二月下旬頃から株式の譲渡価格、同原告の受ける退職慰労金額その他の退陣条件につき折衝を重ねた結果、同年三月三〇日協議が整ったので、その内容を記載した覚書(甲第三号証の一、二)を作成して取り交わしたこと、右折衝の過程において被告大阪合同は同原告に対し、その退陣後も被告日東産業において本件特許権を含む同原告所有の工業所有権を無償で実施することを許諾されたい旨要望したが、原告黒田は自己の所有する工業所有権の実施許諾は新技術開発事業団に一任してあるから自己の一存では決定できないとの理由で右要望を容れず、実施打切につき向後三箇月間の猶予期間を被告日東産業に与えることのみを了承したこと、そこで同年三月三〇日被告日東産業取締役佐竹三吾と原告黒田との間に、被告日東産業は同原告所有の工業所有権の実施を同年六月三〇日限り打切るものとし、原告黒田は同被告の新技術開発事業団に対する実施許諾交渉につき出来るだけ協力するとの内容の契約が成立し、その旨の覚書(甲第三号証の三)が作成されたこと、原告黒田は右覚書を前掲甲第三号証の一、二の覚書に添えて被告大阪合同に差し入れ、同日自己及び実父(当時武本清の通称で被告日東産業の取締役に就任していた)の取締役辞任届を前記佐竹取締役に提出したことが認められる。

(二)  当時被告日東産業の取締役は原告黒田、同原告の実父及び佐竹三吾の三名であったが、そのうち代表取締役は原告黒田のみであったことは当事者間に争いがない。しかし、同原告父子は取締役を辞任する運びとなっており、残る取締役は佐竹三吾だけであったことにかんがみると、佐竹三吾は代表取締役である原告黒田の委任により被告日東産業の代理人として同原告との間に甲第三号証の三の覚書による実施打切契約を締結したものと解するのが相当である。

(三)  しかしながら、本件特許権について被告日東産業が特許法第三五条第一項の規定による法定実施権を有していたことは既に判示したとおりであり、特許権者である取締役が自己のため会社との間に会社の有する右法定実施権を打切らしめることを内容とする合意をなすが如きは、実質的にみて会社と当該取締役との間の利益相反行為にあたり、商法第二六五条所定の取締役会社間の取引に該当する。

原告らは、右契約は原告黒田が被告日東産業から退陣する条件につき双方交渉の末取り決められたものであるから、前記法条にいう取引に該当しない旨主張するが、商法第二六五条にいう取引に該当するか否かは当該法律行為の内容が実質的にみて会社と取締役間の利益相反行為に当るか否かにより決定すべきものであり、原告主張の事情は前記契約が同法条にいう取引に該当することを否定すべき理由とはなりえない。

また原告らは、甲第三号証の三の覚書に調印した当時原告黒田及び同原告の実父は既に取締役の辞任届を提出していたから、右契約は取締役と会社間の取引に当らない旨主張するが、右覚書は同原告の取締役辞任届提出前に作成されたものであること前認定のとおりであるから、右主張も採用できない。

そこで右覚書による実施打切契約をなすことにつき予め被告日東産業の取締役会の決議による承認を受けていたかどうか考察する。

原告らは、右契約内容については被告日東産業の取締役全員が事前に承認し、かつ前記覚書に調印する際次期取締役全員もこれを了承していた旨主張する。しかし、商法第二六五条の要求する取締役会による承認は、同法第二六〇条の二に規定する方法に従ってなされるべきであり、本件に即していえば、原告の実父(同人は実施打切契約に関しては利害関係人ではない)及び佐竹三吾が出席して取締役会を開催し、その席上において承認議決をなすべきものであったのである。正規の取締役会を開催せず、いわゆる持廻り決議によってなした承認は無効と解せざるをえないから、原告ら主張のような事情があったとしても、これをもって本件契約の締結につき取締役会の決議による承認があったことと同視することはできない。

そうすると、佐竹三吾のなした甲第三号証の三の覚書による契約は、少なくとも本件特許権の実施打切を約した部分に関する限り適法な代理権限に基づかない行為であったものといわねばならない。

(四)  原告らは、昭和三八年四月六日開催された被告日東産業の臨時株主総会において原告黒田父子の取締役辞任が承認されたことにより、原告黒田の退陣条件の一部をなす甲第三号証の三の覚書による契約についても、暗に株主総会の事後承認があったものとみるべく、右事後承認は取締役会の承認に代る効力がある旨主張する。しかしながら、取締役と会社間の取引に対する承認は会社の業務執行に関するもので取締役会の専決事項であり、株主総会の決議をもってこれに代えることは許されないものと解すべきであるから、右主張は採用できない。

(五)  原告らは、被告らは原告黒田の退陣条件の一部として甲第三号証の三の覚書による実施打切契約をしたのであるから、被告日東産業の取締役会の承認を追完すべき義務があり、右承認決議のないことをもって原告黒田に対抗することはできない旨主張する。前記四・(一)に認定した事実と≪証拠省略≫を綜合すると、前認定の如く、被告大阪合同が原告黒田との間で同原告の退陣条件につき折衝した際、同原告の退陣後も被告日東産業において本件特許権を含む同原告所有の工業所有権を無償で実施することを許諾されたい旨要望し、右要望が容れられなかったため被告日東産業取締役佐竹三吾が同原告との間に甲第三号証の三の覚書による実施打切契約を締結したのは、被告大阪合同及び右佐竹三吾において、本件特許権につき被告日東産業に法定実施権のあることを知らなかったため、原告黒田の退陣後はその許諾のない限り被告日東産業による本件特許権の実施継続が不可能となると誤信していたことによるものであり、原告黒田もまた右の事実を前提としつつ、被告日東産業の実施継続を許諾せず、実施打切につき三箇月の猶予期間を与える趣旨で前記契約をなしたものであることを窺うに十分である。そうすると、爾後被告日東産業に本件特許権を含む原告黒田所有の工業所有権の実施許諾をしないことが同原告の退陣条件の一部をなすものであって、甲第三号証の三の覚書による実施打切契約は、被告日東産業が法定実施権を有しないことを前提としたものと認むべきである。

してみると、被告日東産業が本件特許権の法定実施権を有する事実がその後明らかとなった以上、被告らにおいて前記実施打切契約につき被告日東産業の取締役会の承認決議を追完すべき義務はないものといわねばならないから、原告らの前記主張は採用できない。

(六)  原告らは、被告日東産業は佐竹三吾のなした前記実施打切契約を追認した旨主張し、その理由として、同被告が右契約に定められた三箇月の猶予期間中本件特許の方法の使用を継続した事実及び被告日東産業代表者佐竹三吾が本訴における本人尋問期日において「被告日東産業は本件特許に牴触しない方法を研究実施している」旨供述した事実を挙げている。しかし、これらの事実はいずれも被告日東産業の原告黒田に対する意思表示と目すべきものではないから、原告らの右主張は失当である。

(七)  以上によれば、甲第三号証の三の覚書による契約は、少なくとも本件特許権の実施打切を約した部分に関する限り、被告日東産業につき効力を生じないことに帰する。

(八)  のみならず、前記四・(五)において認定したとおり、佐竹三吾は右契約締結当時被告日東産業が本件特許権の法定実施権を有する事実を知らなかったものであり、同人が右事実を知っていたとすれば本件特許権の実施打切を約するが如き行為に出なかったであろうことは容易に推認できるところであるから、同人の右意思表示が錯誤に基づくものであることは明らかである。しかも、右実施打切契約は、原告黒田の退陣後はその許諾のない限り被告日東産業において本件特許権を実施しえなくなることを当然の前提事項として成立したものであることは従来説示したとおりであるから、佐竹三吾の前記錯誤は原告ら主張の如く契約の動機ないし原因の錯誤ではなく、契約の要素の錯誤に該当する。

(九)  原告らは、佐竹三吾が本件特許権につき被告日東産業に法定実施権のある事実を知らなかったのは同人の重大な過失によるものであると主張する。

≪証拠省略≫によると、佐竹三吾は明治三八年に東大独法科を卒業して官界に入り、法制局参事官、鉄道監督局長、国際連盟交通専門委員、大阪市電気局長、内閣法制局長官等を歴任し貴族院勅選議員を経て昭和七年以降電鉄会社の社長等主として交通関係の管理業務に従事していた者であって、被告日東産業の取引銀行筋の推挙により昭和三三年一月二八日同被告の取締役に就任したのであるが、被告日東産業の技術部門には一切関与せず、本件特許が職務発明に該当し、同被告に法定実施権があるとの事実は全く知らなかったものであることが認められる。しかし工業所有権に関する研究は現在のところ、法学のうちでも特殊な分野に属し、殊に職務発明に関する知識を有することは一般普通人に期待しうべきものということはできない。そうすると、佐竹三吾が特許関係の法理に通じていなかったところから、原告黒田と前記実施打切契約をなした際、被告日東産業が本件特許発明につき法定実施権を有することを知らなかったことにつき重大な過失があったとは到底認めることはできない。

(十)  更に原告らは、甲第三号証の三の覚書による実施打切契約は原告黒田と被告らとの間の和解の性質を有するから、錯誤の主張は許されない旨主張するが、右契約は被告日東産業の法定実施権の有無につき当事者間に存した紛争を解決するためになされたものではなく、むしろ被告日東産業に法定実施権のないことを前提としてなされたものであることは既に述べたとおりであるから、その前提事実に錯誤がある以上、右契約が和解の性質を有すると否とにかかわりなく、錯誤による無効の主張が許されるものといわねばならない。

(十一)  そうすると、前記契約中、本件特許権の実施打切を約した部分は、前記(八)以下に説示した理由によっても無効たるを免れないものである。

従って、本件特許権につき被告日東産業の有する法定実施権が放棄によって消滅したものと認めることはできない。

五(結論)

以上によれば、結局、被告日東産業は本件特許権につき特許法第三五条第一項の規定による実施権を有するので、たとえ同被告が本件特許の方法を用いて軟質合成樹脂合着耐圧ホースを製造したとしても、何等本件特許権を侵害するものではないのみならず、同被告が昭和三八年七月一日以降現在に至るまで右耐圧ホースの製造について本件特許の技術的範囲に属する別紙第一、第二目録記載の方法を用いているとの原告らの主張事実自体、既に判示したとおり認定することができないので、これと異なる前提に立つ原告らの被告らに対する本訴各請求は、すべて失当として排斥を免れない。

よって、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大江健次郎 裁判官 近藤浩武 庵前重和)

〈以下省略〉

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